思い出を作りましょう

 

私の母はキヌという名前です。

お正月中毎日電話をしてもなかなか捕まらず、

昨晩やっと新年の挨拶をすることが出来ました。

折角なので前々から聞きたいと思っていた

母の母親、シマさんについて質問してみました。

「お母さんは、私が10歳の時に亡くなったので

お母さんと何かしたとか、何処かに連れて行ってもらった

という思い出なんてないのよ。そうね、一回だけ

お正月に隣の町で下着を買いに連れて行ってもらった事が

あるわ。あと二回ぐらいか、お正月に里に連れて行って

行ってくれたことがあったわ。実家に一泊だけするんだけど

向こうのうちのいとこと遊んだり、今度はいとこ達が

泊まりに来たりで楽しかったな。

なんせ姉妹達が大勢いたから下の子達しか連れて行って

もらえない。私の下に、ゆきちゃん、チイ子といたから

私が連れて行ってもらえたのは一回か二回だと思うわ。

おとうさんが体が弱かった時期があって

一生懸命おとうさんの代わりに畑仕事をして、子供達と

話をする時間も無かったんだよ。

休む間も無く働いて、働き死んだんだよ。

そうゆう時代だったんだよ。お母さんはおばあちゃに

育ててもらったようなもんだ。」

母はそう言うと「おとうさんと代わるね。」と

そそくさとお父さんに代わってしまいました。

兄、姉、姉、姉、姉、キヌ、妹、妹、弟 と言う

家族構成で祖母が子供一人一人と接する時間が

無かったと言うのは理解にかたくない状況です。

日本に帰ったら母の実家に行って

ご先祖様たちのお墓まいりをいたしましょう。

私は弟と妹がいます。母と私だけの思い出で楽しいものは

いくつもありません。胸にチクン’とくるものの方が

多いような気がします。

 

一番好きな思い出を書きましょう。

4歳か5歳だったと思います。

雨の降っている日でした。

少し離れた田んぼの畦道に

サヤエンドウを植えてありました。

夕飯のおかずにそのエンドウを摘みに行く時

「秋代、一緒に行く?」と誘ってくれました。

なぜかわかりませんが、お母さんは私をおんぶして

二人の上から大きなお父さんの雨がっぱを羽織り

出かけました。

田んぼはうちから歩いて5分ぐらいのところにありました。

お母さんの暖かい背中。カッパのビニールと混ざった

お母さんの匂い。

弟が生まれてから

お母さんにおんぶしてもらった記憶は

後にも先にもこの時一回だけ。

道々、どんな話をしたのか覚えていません。

もしかすると、歌の好きなお母さんと一緒に

「雨雨 降れ降れ。。。」と歌ったかも知れません。

お母さんの肩先から見る風景。

カッパのフードの透明な部分から見える

雨水のレンズを通してみる切り取られた風景、

頭に当たる雨の音と感触。

田んぼについてエンドウを摘む時

少し前傾したせいで私の頭がお母さんの顔に並び、

目に飛び込んできたのは、

お母さんの指の先に見えるエンドウの

赤紫とピンクの花、雨に濡れた鮮やかなエンドウの緑。

映画のワンシーンのように思い出はここで

途切れてしまいます。

でも、50年以上経っても鮮明に蘇る思い出のワンシーン。

 

そして、最近、気になるのは

私は娘たちに思い出を残してあげられたでしょうか?という事。

 

サンフランシスコのお母さん、はつ江さんとの思い出。

夫と別居した2001年のクリスマス。娘と三人だけのクリスマス。

日本人のベテランヘアスタイリストで70を過ぎても

自宅で仕事をしていたはつ江さんに髪を切ってもらいながら

「今年はクリスマスツリーどうしようかしら?

大変だから今年はやめようかな?」

と言った私に、厳しい口調で、

「何を寝ぼけたことを言っているの?三人だけだからこそ

クリスマスツリーを飾って、いい思い出を残さなければ

いけないのよ!すぐに三人で買いに行きなさい!」

と叱咤激励されました。

アメリカに家族のいない私にとって、

日本人で母親業の大先輩からの暖かく、厳しい助言は

本当にありがたい事でした。

子供達に寂しいクリスマスを過ごさせるところでした。

 

今年はたくさん思い出を残しましょう。

できれば楽しい思い出をあなたと愛する人々と一緒に。

この一瞬は永遠の中の一瞬。

 

2019年、秋代はここにおります、秋代MURAに。

 

 

 

 

 

私は靴を履かず、

 

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