取り繕われた密室−8

black metal framed padded folding chair

この子はいつも爪を噛んでいる。
こんな場面でわけのない思考が浮かんでは消える。
正面から対処したくない、現実を受け入れたくない私の
脳内細胞はこれからやらなくてはいけないすべてのことに
物怖じしている。

法律上は娘であるこの子がすべてを取り仕切らなければ
いけないのだが、性格的に芸術家肌のこの子にはお役所との
やり取りは難しいだろう。ましてこんなに傷ついて、打ちひしがれている
娘にこれ以上の重荷をかせることはできない。

「お母さん、みんなに連絡するね。」と言って次女に電話をかける。
仕事中に電話をかけると嫌がる娘は普通は電話にでない。
しかし、今日は違った。オフィスを出る前に夫と連絡が取れない
ことを伝えておいたのだ。「残念ながらお父さんはなくなっていたわ。」
次女が息を呑んだ。それを聞いた私は胸が押しつぶされるように感じて
言葉が続かず、涙が溢れてきた。深呼吸をして、息を整えて
「まだ検視官がアパートにいて、詳しいことはわからないの。
大変だとは思うけどサンフランシスコに帰ってこれる?お姉ちゃんと話す?」
長女を振り返ると、「自分の電話で話すよ。」と答えた。
「じゃあ、お母さんまだ連絡しなくちゃいいけない人がいるから、
切るね。お姉ちゃんが電話するって。飛行機代お母さんが出すから、
予約が取れたらテキストしてね。」といって電話を切った。

次に誰に電話すべきか考えていると、ドアをノックしてクリスティが現れた。
折りたたみ式の椅子を持って部屋に入ってきた。
「まだ時間が掛かりそうだし、座るところもないから
椅子を持ってきたわ。あとで検視官からの事情聴取があるけど、
その時は電話するわね。」そう言って部屋を出ていった。

夫の職場の上司に連絡を入れた。死亡していた旨を伝えると
「昨日までピンピンしていたのに!一体何があったんだろう?
私から本社に連絡をしておきます。まずはお悔やみを申し上げます。
何か私達にできることはありますか?」
「いいえ、今の所は大丈夫です。落ち着きましたらお店の方に
ご挨拶に伺います。夫の私物をまとめておいていただけますか?」
夫は長いことこの書店で働いていた。サンフランシスコの中でも
おしゃれなマリーナ(Marina)地区の中心地、Union Street(ユニオン
ストリート)は高級レストラン、ブティック、カフェなどが
ひしめき合っている。そんなハイセンスな町並みの中に溶け込んだ
書店である。

夫のアパートからはPacific Heights(パシフィックハイツ)という
ここも高級住宅地の丘を超えていく。健脚な夫はいつも歩いて仕事に行っていた。
パシフィックハイツの頂上からはサンフランシスコ湾、ゴールデンゲートブリッジ、
あの有名な監獄のあったアラカトラス島、移民が留め置かれたエンジェルアイランド、
対岸のマリン郡の山並みが一望できる。天気の良い日はヨットが何艘も浮かび、貨物船や
行き交うフェリーも見える。しかし、霧の深い日には真っ白で何も見えず、
警告の霧笛だけが聞こえる。

 

続く

 

 

 

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