第50回サンフランシスコプライドパレードは
コロナ禍で残念ながら中止になりテレビで特番を組んで
50年の歴史を振り返っていました。
その番組の中で特に目を引いたのは80年代に蔓延した
AIDS(Acurired ImmunoDeficiency Syndrome
後天性免疫不全症候群)の引き起こしたLGBTQ+
コミュニティーへの影響と政府の対応でした。
AIDSはHIV(Human Immunodeficiency Virus
ヒト免疫不全ウイルス)に感染することによって
引き起こされる病気です。現在ではごく簡単なテストで
HIV保有者は+(ポジティブ 陽性)、非保有者は
ー(ネガティヴ 陰性)と診断されます。
ポジティブであっても、投薬によって症状を軽減
することができます。
最初アメリカ政府はパンデミックであるAIDSに
対してなんのなすすべもなく、患者たちは
バタバタと死んでいきました。時の大統領、
レーガンは1981年から在任していたのにも
関わらず、1986年までなんの政策も取らず、
国民がパニック状態に陥いるまで、無視し続けました。
AIDSは日和見期間が5−10年かかることがあるため、
突然、聞いたこともない病気になったり、
ガンになったりでなくなっていくのです。
大衆は疑心暗鬼にとらわれ、いたずらに恐れていました。
そのために、ゲイというだけで暴行を受けたり、仕事を
失った人もいました。
感染経路に関しても、正しい情報がなかったため、
インフルエンザのように空気感染や、触ったものからうつる
接触感染なども疑われました。2020年の今日では、
感染経路は「性的感染」、注射器の使い回し、輸血などによる
「血液感染」、出産時に母親の血を浴びることや母乳から感染する、
「母子感染」以上の3つであることは周知のことです。
当然政府からの支援がなかったため、1980年代初期の
患者たちは職を失い、住むところを失い、時には、家族にも見捨てられ
経済危機に見舞われました。
LGBTQコミュニティーの中で、患者たちを支援する非営利団体が
組織されました。
今でも、AIDSを発症する人はいます。
私の所属するLGBTQダンスコミュニティーであるSUNDANCE
も毎年寄付を集めるときは4分の1から半分をAIDS EMERGENCY
FUND (AIDS緊急基金)に寄付していますし、クリスマスには
AIDSの子供達(母子感染)におもちゃを寄付しています。
マスコミは今でも進行しているAIDSに対して、なんの報道も
しません。多くの人は今でも確実にAIDSが存在していることを
忘れてしまっています。
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私個人の話です。
ゲイの友人のジョンは夫がAIDSで亡くなり、彼自身もHIV+でした。
私がであった頃は、カウンセラーとして非営利団体で働いていて、
60歳のお誕生日には一緒にジルバを踊れるぐらい元気でした。
そんな彼でしたが、徐々に健康に陰りが見え始め、原因不明の
神経痛、皮膚の疾患などの症状が現れました。彼の主治医は、
絶対ききもしないと分かっていながら、「他に方法が考えられない」
といって、抗がん剤の投与をしました。
最初は3回の予定でしたが、効果がないのと、ジョンの体力の
消耗が激しいので、1回で終わり!良かったーと思いましたが、
彼の健康は確実に蝕まれていきました。
色々新薬が開発されましたが、新薬は保険が効かず、
一錠1万2千円!もすると言われていました。それを毎日摂取しなくては
ならないのです。患者の経済的負担は大変なものになります。
ジョンのお医者さんは実験用という名目で、彼に投与してくれたそうです。
私は月に一回彼のアパートに行ってマッサージをして、お話をして、
それからジョンとお昼ご飯を食べに行きました。
綺麗好きのジョンのアパートはビクトリア王朝風のインテリアと
若くして亡くなったお兄さんの描いた油絵や大きな壁にかけられた
明るい色のキルトでアーティストらしいお部屋でした。
いつもキッチンでジョンのお茶のコレクションから好きなのを
選んで、落ち着いたリビングで。ティータイム。
そんな二人の習慣も最後を迎えました。ジョンの脚の神経痛が悪化し、
杖をついてさえ長く歩くことができなくなりました。
ジョンは最後にはホスピスに入院し、面会禁止になりました。
ジョンのお姉さんから友達にメールが届きました。
『ジョンはみなさんと会ってお話しすることはできませんが、
メールを読むことはできます。どうぞ彼にメールを送ってあげて
くださいね。』私は亡くなっていく彼になんと書いて良いかわからず
グズグズしているうちに、お姉さんからのメールでジョンが
なくなったこと、追悼式のお知らせが届きました。
追悼式では共通の友人が何人かに会いました。
友人代表で話した人が、『ジョンは器用な人でした。
みなさんの多くは彼の手作りカードや小物をもらったことが
あると思います。』
私の50歳の誕生日パーティーに来てくれたジョンから
贈られた扇子が下の写真です。
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アメリカ中にAIDSによって家族、友人、愛する人を失った人がいます。
NAMES Project AIDS Memorial Quiltと呼ばれるプロジェクトが
1987年にサンフランシスコで発足しました。
AIDSによって愛する人を失った人々は周りの人々への配慮により
お葬式を出すことができませんでした。遺族にできることは
思い出をキルトの図柄に託すことでした。91cm x 180cm
の大きさの布に、意匠を凝らして愛する人の思い出を表現していきました。
プロジェクトではキルトを集め首都ワシントンのナショナル・モールで
展示されました。1000枚のキルトが広いナショナル・モールに
敷き詰められました。
それを皮切りに、アメリカ中でAIDSキルトの展示が行われました。
キルトは毎年、毎年、枚数が重ねられ、84000枚、94000人の名前
が記され、推定総重量は54トンにものぼるということです。
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教会で知り合った手術室担当の看護師だったサラはAIDS患者に使った
器具を片付けた時、使用済みの器具により怪我をしてそこから
感染してしまいました。
新婚だった彼女は、人工授精で妊娠し、帝王切開で出産、人工ミルク
で娘を育てました。幸い娘さんはAIDSに感染しておらず、みんなホッとしました。
1991年のことでした。
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コロナ感染を防ぐためにロックダウン、マスク着用、ソーシャル・ディスタンス、
などを経験している今、40年前のAIDSのことを思い出しながら、
色々考えることがありました。
初期における情報不足によるパニック、普通にお葬式ができないこと、
ウイルスは存在し続けることなど、類似点がたくさんあります。
お問い合わせはこちらhttps://ws.formzu.net/fgen/S90802746/
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